小さな街の狭苦しい“飲んだくれ”路地の突き当たり。安酒場のネオンが小雨にくすぶって見える。カビ臭い往年のヒット曲が流れる店内には中年サラリーマンが一人。
「初めてこの曲を聴いた時、それはドキドキしたもんだ」
昔の感動を必死でたぐり寄せているように見えた男から、ため息とともにその小さな興奮は消えていった。 「リズムがとても斬新だった」 「私にもそういう経験があります。若い頃はすべてが新鮮でした」 カウンターの中からマスターが、そう相づちを打った。 「そういうことかもな‥‥‥」 男は気の乗らない返事をした。甘い追憶は長くは続かない。あっという間に宙に消え、男は再び、体にしみ込んだ倦怠感に捕まってしまった。マスターは肩をすくめると、別な客の相手をしにカウンターの奥に引っ込んだ。
その時。
「現代社会は情報の洪水。いつまでも新鮮な気持ちを維持するのは難しいですなあ」 後ろのテーブル席から声がした。 「情報は日々膨れ上がる。でも逃げる訳にはいかない。有能な人ほど神経をすり減らす毎日」 サラリーマンが振り向いた先には、いつの間にか品の良い初老の男性が座っていた。 「しかしある日。人生のたのしみを置き忘れている自分に気が付く。躍動感に満ちていた青春の日々。何もかもが新鮮だった若葉の季節。失ったものへの焦燥感とあきらめ‥‥‥」 「だからといって、どうにもならない。こうして酒に八つ当たりしているのがせいぜい」 サラリーマンは肩をすくめてみせた。
「でも。もしですよ。青春を取り戻す方法があるとしたらどうですか」
「あったら飲み屋は潰れる」 気を引く必要のない相手に対して、気の利いたことを言ったという屈折した表情が、中年サラリーマンの酒色に染まった顔に浮かんだ。 「では潰さないように。もう一杯」 初老の紳士はマスターに合図して、酒を二杯運ばせた。サラリーマンは誘われ、紳士のテーブルに移った。 「失われし青春に乾杯」 サラリーマンは大げさな身振りで杯を掲げ、二人は杯を合わせた。 「蘇る青春に乾杯」 紳士はポケットからあめ玉のようなものを取り出しながら、そうつぶやき、包みを開いた。 「これなんですが‥‥」 「まさか青春を取り戻せる妙薬‥‥‥なんて言うんじゃないでしょうね」 サラリーマンの口が皮肉っぽくゆがんだ。紳士は、にこりともせず、相手を正面から見据えた。 「まさにその通りです。物事を瞬間的に忘れることができます、いわば瞬間忘却剤。見慣れた風景も一瞬にして輝く。新鮮な気持ちになる画期的な薬です」 「‥‥‥」 「なるほど。信用できませんか。もっともです」 彼は鷹揚に頷いてみせた。 「もし本当なら面白い。しかし言っては悪いが、はいそうですかと簡単に信じられる話ではない、新手のインチキ商売‥‥」 と、サラリーマンが反論しようとしたその時。店内にさっきの懐メロが流れて来た。高くなりかけた声がピタリと止んだ。 流麗なメロディー。開放感満点のハーモニー。そしてなによりワクワクする、この自由闊達なリズム! 「ああ、この躍動感。体の隅々までリズムが行き渡る。背筋にショックが走っていく‥‥初めて聴いた時の感動が蘇る。素晴らしい!」 若かりし頃、少年の夢見る目に戻ったサラリーマンは陶然とし、そしてぼう然とした。
「いかがですか。さっきほんの少しだけあなたのお酒に混ぜさせてもらいました」
初老の男性はいたずらっぽく笑った。 「成分を微妙に変えると、作用する部分が異なってきます。今試してもらったのは聴覚野に作用するように配合しました。量にもよりますが、十二時間ほど効果は持続します。その間、どんな名曲でも初めて聴いた時の感動が味わえるというわけです。視覚、味覚、嗅 覚、そして触覚。いずれもご期待に添えます。もしお望みならば、お分けしましょう」 「そんな画期的な薬なら、大々的に売れるでしょう。どうして‥‥。それと副作用も気になる」 サラリーマンは興奮しながらも、しかしまた不安がのぞいた。 初老の男性にとっては予想された質問なのであろう。答えはすぐに返ってきた。 「考えても見なさい。見るもの、聴くものに新鮮さがよみがえる。そんな薬があったら、だれが目新しいものを欲しがりますか。人間は新奇なものに目がない。消費社会を根本から覆す可能性がある薬をお上が許すと思いますか。副作用は、せいぜい心拍数が若干上がる程度。ドキドキしますからね。ぼけてしまうなどの副作用はありません。かえって気分はリフレッシュして、いいくらいです。私で人体実験は済ませてます。どうです何粒か?」 サラリーマンは戸惑いの表情を見せたが、先ほどの劇的効果に心が揺れた。それに自らが既に人体実験をしてしまっている。それ以上に、人生に対する飽いた気持ちが彼を突き動かした。 初老の男性が提示した値段は、安酒場の飲み代に比べれば高い値段だった。しかしその場で払えない値段ではない。中年サラリーマンは財布をはたいて、数粒の薬を購入し、上機嫌でスナックを後にした。
初老の男性は彼を見送り、小さな声でつぶやいた。
「毎度ありがとうございます」
実は渡した薬は、単なるあめ玉。さっき酒に入れた薬には、前後数時間の記憶が全くなくなるという副作用があるのだ。中年サラリーマンは、ここでの出来事を何一つ覚えてはいないだろう。実はこれが致命的な欠陥だった。効果を相手に示しても、その肝心な部分を相手は覚えていてくれない。画期的な発明だが、これでは商売にはならない。発明に金を使いすぎて貧乏な毎日。こうして酒場でカモを狙うのが最もてっとり早いというわけだ。
あの男も今日で三回目のお客さん。今日も小遣い稼ぎをさせてもらった。感謝せねばなるまい。 明日彼は起きてこう言うだろう。—— ああ昨日は飲み過ぎた。あの店に入ってからの記憶が全くない‥‥‥でも不思議だ。何だか気分はいい。あれ?このあめ玉はなんだ。店でもらったのかな —— と。 ストレスだらけの現代社会。いただいたお金に見合うサービスではないか。
—— ところで、そこでため息をついているあなた。20年、30年と顔を付き合わせている女性の顔をど忘れする薬もあるが、どうだね?1粒
(佐藤 紀生)
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