4/26/2001 up   ホーム  インデックス

pin 殺気




「ああ本当についてない」
 もとは端正な顔立ちが、今ではすっかりしょぼくれた印象の社長は頭を抱えた。
 会社が倒産の危機に瀕しているのだ。
 業績の安定した会社だったのに、親から代を替わるやいなや、株式相場が暴落し景気が一気に冷え込んだ。追い打ちを掛けるように為替相場が大幅変動。輸入原材料費が高騰した。さらには会長に退いた先代の急死を機に、最も信頼していた古参社員が独立。
 すべてがマイナスの二乗、三乗‥‥。坂を転げ落ちるように売り上げは減少し、有能な社員はみな去った。女房にも愛想を尽かされ、離婚調停中と、まさに八方塞がり。踏んだり蹴ったりの状況だった。
「どうしてオレはこんなに運がないんだろう‥‥」
 甘やかされて育ったため、ここ一番と踏ん張る気力わかないのだろう。社長は力無くつぶやくだけだった。
 —— 徒競走ではいつもゴール直前で転んだ。受験では突然高熱を出したり、電車を乗り違え遅刻して、実力以下の三流どころにしか入れなかった。恋愛も順調なのは前半だけ。いつも強力なライバルが現れ、最後には失恋の苦い味をかみしめてばかり‥‥。
「おまえはいつも詰めが甘いんだよ」
 そう言って笑った友人の指摘は全くその通り。このままでは先祖代々続いた会社までつぶしてしまうだろう ——。
「このヨミだけは確実だろうなあ」
 社長は今までの人生を振り返り、自虐的な笑いを止めることができなかった。一日中、金策に市中を駆け回ったが、傾き掛けた会社に世間は冷たい。万策尽きた。いよいよ終わりだ——という思いがむなしく胸に広がっていく。
 社長は会社を抜けだし、町の繁華街を目指した。普段は酒を飲まないが、飲まずにはいられない気分。
「ああ、むしゃくしゃする」
 1軒目でしたたか飲んだが、気分は重くなる一方。さらに強い酒を求めて、ふらふらと繁華街をさまよった。
 よろけて電柱にぶつかり、したたかに額を打ち付けた社長。その涙交じりの目に電柱の張り紙の文字が飛び込んできた。
「勝負勘を養う方法を伝授します」
 けばけばしい居酒屋のネオンサインに照らさて、文句はこう続いている。
「人生は勝負の連続。勝つ人は、世の中の気を察知する勘に秀でています。殺気を知るもの百戦危うからず」。その下に大きな文字で「正気研究所」とあった。場所はその古びた雑居ビルの四階のようだ。
 人一倍臆病で、保守的な性格。いつもならそんな怪しげな文句に興味を持つことはなかっただろう。しかしまさに人生という勝負に負けようとしていた社長は、『勝負勘』という言葉に深く惹かれるものを感じ、気が付くと店の前に来ていた。酒で気が大きくなっていたこともあるのだろう、見えない力が背中を押しているかのように、社長はためらいもせずドアを開けた。
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 明るくシンプルな部屋の奧に、一人の男が座っていた。細身の体をスーツに包んではいるが、眼光鋭く、全身に見えない力がみなぎっているのを社長は感じた。
「どうぞお座りください。お困りのようですな」
 笑顔は思いのほか柔らかく、声もソフトだ。社長はホッとすると同時に、せきを切ったかのように今、彼が置かれている状況を余さず吐き出した。
 道主と名乗った男は、すべてを聞き終えると静かに口を開いた。
「なるほど。まさにあなたには勝負勘が欠如しているようです。勝負勘とはつまり殺気を感じ取る精神力のことです。世の中の『気』の中にある危険な気配を正しく察知することができるかいなかで、勝負の行方は大きく左右される。殺気を感じる力は、だれにでもあるものです。ただ多くの人の場合、体の奧に眠っている。特にあなたの場合は、熟睡しているといってもいい」
 道主は、社長の額に手をかざし、続けた。
「世の中には、勝負ごとでものすごい勘の働きを示す人がいます。彼らは勝つのではなく、実は負けないのです。負のエネルギーである殺気を探り出し、決して殺気の流れに逆らうことはない。それが結果的には勝つことにつながる。競馬で大穴を当てるのは単なるツキだが、本命に大金を賭け勝ち切るには、殺気を退け正気につくことが大切 ——。これが私どもの考え方なのです」
 道主は、ある高名な格闘家の例を挙げた。かつてはいわゆる稽古場横綱。練習では無敵なのに大会では実力を発揮できず、上位進出を目前に敗退を繰り返していた。格下の相手が破れかぶれで繰り出した捨て身の大技や奇襲策に引っかかってばかり。その「無冠の帝王」の汚名を挽回したその陰には、正気道の教えがあったというのだ。
 社長は得心した。というより信じるしかないという気持ちになっていた。
「すぐに勝負勘を養いたいのです。あさってまでに手形の決済が出来ないと、会社が倒産してしまうのです‥‥」
 社長は椅子から身を乗り出して、頼み込んだ。
「あなたは頭を下げることが苦手ですね」
 ズバリ痛いところを突かれた。ボンボン育ちの社長にとって、それがなにより苦手なこと。人になめられるな —— という先代の教えを守ってきたのだが、実は気の弱さを態度で隠しているというのが本当のところだった。
「殺気を避ける修行の第一歩は頭を下げることです。さあ、平身低頭、徹底的に頭を下げるのです」
 基本となる呼吸法も教わった。社長はまるで催眠術にかけられたように、朝まで道場に残り、頭を下げる修行を続けた。
 その結果‥‥。にわか修行だったが、背水の陣の社長にとっては唯一のよりどころ。頭を下げるという修行内容も功を奏したのか、当座をしのぐ商談があっけなくまとまり、何とか倒産の危機を回避できたのだ。
「早くも修行の成果が表れたようですな。なかなか飲み込みが早い」
「はい。これも正気道のおかげです。まだまだ会社は危ない状況。努めて精進します」
 道主の励ましもあり、社長は修行にのめり込んでいった。信じるものは救われる —— の心境であったのだろう。道場に通う傍ら、会社や自宅でも暇を見つけては修行に時間を割いた。
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 そんな猛修行を続けていたある日。社長は突然、弾けるような強烈な殺気に体を貫かれた。
「うっ」
 時折、漠然とした殺気を感じるまでに成長はしていたが、全身が総毛立つほどの殺気を感じたのは今回が初めてだった。
「社長、どうしたんですか。顔色が真っ青ですよ」
 目の前には取引先の社員がいた。破格の条件で提示された大口の取引。まさに契約書に判を押そうとしていたのだ。
「どうも気分がすぐれない。申し訳ないが、後日にしてほしい」
 体調不良を理由に契約を土壇場でキャンセル。部下に命じてこっそり調べさせると、なんとその会社の経理担当者が巨額の横領をしたらしいとの情報を得た。案の定、その数日後に事件が明るみになり、取引先は間もなく倒産した。
「危なかった。巻き添えでこちらも倒産するところだった‥‥なるほど。まさに殺気だな。これが修行の成果か。素晴らしい」
 社長は冷や汗をぬぐい、道主に報告した。
「こんなに早く能力が開花する人は珍しい。しかも既に大きな気を感じる。寝ていた才能は思ったより巨大かもしれませんな」
 道主は社長をそうほめ、社長は幾ばくかの寄付をし、さらにステップアップを目指した。
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 次第にはっきりと世の中の殺気の流れも察知できるようになった。試しに競馬をしても、殺気を感じないレースならば本命を買えば外すことがないことも分かった。大勝ちこそはないが、負けることはない。取引先の良し悪しも分かる。
「むむ。殺気!」
 道を歩いて何となく嫌な予感がする時は、気を凝らし、殺気を感じる反対側に避難した。実際、事故や事件に巻き込まれるのを何度か回避することができたのだ。
 殺気術をマスターした途端、社業はまさに右肩上がり。本業以外にも、不動産、金融と商売を広げていった。一方では、余りにもドライな経営というレッテルが張られた。社長は正気道・殺気術に忠実なだけで、自らの行為は非情だとは感じていないが、身内を含め多くの人や企業を切り捨て、泣かせる結果になったためだ。
「仕方がない。そうしなければもっと大きな殺気が私を襲うのだからな」
 人の恨みを買うたびに、社長はそう自分を納得させた。ついには非合法な商売にも手を染めたが、それも人間がつくった法律の中にも殺気が潜んでいることを知ったからであった。降りかかる殺気を避けるためには、これまた必然の選択。社長の殺気術は達人の域さえ超え、いわば悟りの境地に達しようとしていた。

「それにしても世の中には何と殺気が満ちていることか。大きな殺気。小さな殺気。鋭い殺気。漠然とした殺気。成長する殺気。突然現れる殺気‥‥」
 新築した本社ビルの最上階の社長室から下界を眺め、社長は世間にうごめく殺気の多種多様さを感じ取っていた。
「あの車を運転している若い会社員は、才能ある同僚に嫉妬し、会社組織全体にまで強烈な憎悪を燃やしている。談笑しあっている女性グループは互いに殺気をぶつけ合い、優位を保とうと必死だ。おっとあれは先月、取引を打ち切った会社の社長か。このビルに向け、刺すような殺気を放っている‥‥
「殺気を避けようとした結果、新たな殺気が生じる。因果応報。いやはや。何をどうすればいいのか難しいものだ」
 社長はため息をついたところに、専務が入って来た。
「社長。書類に決裁をお願いします。それと明日の会議はどういたしましょうか」
(この温厚な専務の中に先月、恐ろしいほどの殺気が現れた。非合法事業の失敗が原因で、ある女性社員が自殺して以来だ。不倫の噂は本当だったという訳だ)
(専務だけではない。役員も社員も強弱の差こそあれ、私に向けた殺気を感じる。成長を目指すあまり、給料や待遇に不満があるのだろう)
(取引先の連中もすべてだし、友人、知人は私の成功をねたんでいる。口ではうまいこと言うが、その抑えきれない殺気が何よりの証拠だ)
(もちろん二人いる愛人も信用できない。金の振り込みをわざと遅らせたときに彼女たちに宿った殺気の強力さといったら‥‥目まいがするほどだった。所詮は金だけの縁か)
(ペットが純真だという人がいるが、大間違いだ。闘争本能というものは実に恐ろしい殺気となるものだ。主人であろうといざとなれば牙をむく野生の血が失われていない。一緒にいるだけで頭ががんがんするほどだ)
「まさに信じられるのは自分だけと言うわけだ」
 その声はぞっとするほど冷たい響きを帯びていた。
 しかし事態はそれだけでは済まなかった。一度、体得した以上、修行せずとも殺気を感じる力は衰えるどころか、ますますとぎすまされていった。感じる殺気は日々、少しずつ大きくなり、ついには不眠症になるほど社長を苦しめ始めていた。足が遠のいていた道主にすがり、社長室と寝室などに殺気を封じ込める工夫を施した。
 ある種の金属を天井、壁、床にコーティングした。護符もあちこちに張った。しかしそれでも低周波のように押し寄せる殺気を完全には防げなかった。耳鳴りのように体に忍び込んで来る。
「むむむ。もはや限界。こんなに殺気だらけの場所にはいられない」
 社長は殺気が渦巻く大都会にいることに耐えられなくなった。地方の中都市へ。さらには小都市。殺気から逃亡することにやっきになった。ついには人里を離れ、山を分け入った。しかし逃れても、逃れても殺気は追って来る。社長自体が高性能なレーダーのようになっていたのだろう。どこに行こうと必ず飛び込んでくる殺気に神経はぼろぼろになっていった。
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 どこをどう歩いたか、社長は深山の渓流にいた。ひときわ目立つ一本の大木が目の前にそびえている。疲れ切った社長は倒れ込むように大木の根本に崩れ落ちた。
「やや。不思議だ。ここでは一切の殺気が消える。この大木が殺気を吸い取ってくれているようだ。何千年生きたのだろう。人間社会、いや動物社会のせこせこした殺気を浄化しているのだろうか」
 その神々しいたたずまいに社長は思わず手を合わせた。何日、いや何ヶ月ぶりかに取り戻した平穏。
「ああ。ありがたい」
 そうつぶやき泥のように眠りに落ちた。‥‥が、しばらくして悪夢にうなされ、飛び起きた。
「‥‥かすかに殺気を感じる」
 汗が噴き出す。神木もかすかに苦痛に身をよじるかのように、葉をざわつかせている。
 だれか来たのだろうか?いや‥‥。だれもいない。危険な動物もいない。空中には全く殺気は放たれていない。しかしこれは確かに殺気だ!社長は戸惑った。さらに驚いたことにその殺気には邪悪な気配が全くなかった。無理に表現すれば、澄み切った純粋な殺気とでも言えるだろうか。殺気は少しずつはっきりと感じ取れるようになった。一つ、二つの殺気ではない。何千、何万、いや何億、いやいや、それでも少ない天文学的な数の殺気。その出所は‥‥。
「か、体の中?私の体の中だ!」
 社長は大きく目を見開いた。
「私の体の中にあるすべての細胞から、小さな小さな『殺気』が聞こえてくる。ほら『死ね』『死ね』そう、そう叫んでいる」
 社長はかつて読んだことのある医学雑誌の記事を思い出していた。DNAの研究者がこんなことを言っていた。
「‥‥DNAの末端になるテロメアという部分は、細胞分裂を繰り返すたびに短くなっていき、これが人間など細胞核のある生物の死の時限装置と見られています。まさにDNAに死の予告が書き込まれている訳です‥‥」
 間違いない。この殺気の正体は死を演出するテロメアが発しているのだ。細胞分 裂するたびに奏でられる死の前奏曲‥‥。
 社長は恐ろしくしかし一方で甘美な死のメロディーから逃れ切れずに、その大木の元にとどまることを選んだ。何日かが過ぎ社長の命が絶える時がやってきた。その死の瞬間。社長は体の奧から壮麗な葬送曲を聴いたように感じた。最期の殺気は大木に静かに吸い取られ、浄化された。
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 それからしばらくして、あれほど長く続いた不景気は好転し始め、世の中の憂いもいくらか晴れたようなきがした。不景気という、負の気の流れが生み出した「殺気」。その化身が彼だったのかもしれない。そして社会は彼をアポトーシス(自滅)させた。そんな気もするが、今では知る術はない。

(佐藤 紀生)

ya1 馬鹿ミニ ya2

Are You Gonna Go My Way / by Lenny Kravitz

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