11/28/2008 up   ホーム  インデックス

pin 白い記憶







白いもやの中を歩いていた。伸ばした指先すらかすむような、濃密なもや。何時間、いや何日さまよい歩いたのだろう? 膝を屈しかけた、その時、前方にわずかな光が見えた。必死に光を求め、一歩、また一歩前に進んだ。そして…。

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私は、意識を取り戻した。

「二週間前、あなたは盛り場の路地裏で、倒れているところを発見されました」
突如、言葉が頭上から降って来た。
「頭を強く打ったらしく、一時は命の危険もありましたが、何とか乗り切りました」
首を横に向けた。ギシギシと嫌な音がした。
そこは……明らかに病院と分かる殺風景な部屋だった。
ベッド脇に白衣を着た男がいた。不愉快な声はその、ぶよぶよと動く赤茶けた分厚いくちびる、そこから降ってきていた。

ーー病院にいる?
それも問題だったが、さらに悪いことに、自分がどこの誰かさえ分からなくなっていた。

「こ…ここはどこの病院…だ? いや…このおれ。おれは誰だ?」
喉からは、かさついた、声ともいえない、つぶやきがこぼれ落ちた。

「お名前は?」
医者が聞いた。
「わ、分からない。おれは誰だ? 分からない…」
「無理をなさらないでください。記憶が混乱しているのでしょう。脳に異常はありませんでしたし…」
私は必死で思いだそうとした。が、無駄だった。
白いシーツ、白いカーテン、医者と看護婦の白衣…。外から差し込む陽光も眩しいくらい白い。過去を無くした私はまるで、この乳白色の部屋と同じ風景のようだった。


その後、体力の回復とともに、各種検査を受けた。
「物理的なショックによる、一時的な記憶喪失だろうと思われます」
医者はそう説明した。
「決して珍しいことではありません。脳手術した患者さんの中には一か月ほど、記憶が曖昧なケースは散見されます。検査で異常は全くありませんから、あなたの場合、回復する可能性は高いと思っています」

医者の安請け合いから数日。しかし一向に私の記憶は元に戻らなかった。
そんなある日、一人の刑事が病室を訪ねてきた。


「手がかりに乏しいんですよ。大変、困っています」
真っ赤なネクタイをした刑事が言った。私は強盗に襲われたらしい。身元を判断するものは何一つ身に付けてなかったという。赤いネクタイが小刻みに揺れた。白い肌ににじんだ血のように、その赤は、妙にまがまがしい。
「あなたがどこのだれなのか分からないと聞いて、一番がっかりしているのは私たちなんです。犯人の一番有力な目撃者はまさにあなた自身なんですからなあ」
期待が裏切られた苛立ちを隠そうともせず、刑事はそう言い残し、病室を去った。
ーー 手がかりなし ーー 刑事の言葉が何度もうつろに響いた。

「おれは一体何者なんだ。どこで何をしていたんだ」
病室の鏡をのぞき込んで自問した。坊主頭にこれといって特徴のない顔。中肉中背。世の中の出来事は鮮明に覚えているのだが、自己に関する記憶は全く眠りから覚める気配は無かった。まるで放送が終了した深夜のテレビを録画したビデオテープのようなもの。あの砂嵐のような映像が頭に浮かんだ。


「頭が覚えていなくとも、例えばピアニストが鍵盤に向かえば自然と指が動くように ーー これは作業記憶と呼ばれていますが ーー いわば体に染みついた記憶というものがあります」
「ほら、僕の手を見てください」
そういうとカウンセラーは、ボールペンを二本の指を器用に使い、何度もクルクルと回してみせた。

最新の催眠療法を試すなど、あらゆる手法を尽くした。一つだけ、「火」という言葉に顕著な反応が出た。試しにライターの火を見せられたとき、私の心はとても落ち着いた。
火! 思い立って、病院の調理場を覗いた。夕食の準備の最中、喧噪の中、調理人が大きな中華鍋で麻婆豆腐を作っていた。ごうっーと火が上がり、調理人が見事な手さばきを見せた。何となく、自分でも調理できそうな気がしたが、残念ながら、鍋の扱いは素人だった。
そのほかにも、いろいろな試みをしたが、失われた記憶は全く呼び戻すことはできなかった。

倒れていたという盛り場、そしてその周辺は何度も何度も足を運んだ。
私が昏倒していた場所は、奥行き十メートルほどで、左右を雑居ビルのコンクリートに囲まれた袋小路だった。空を仰ぐとどんよりとした曇り空が長方形に切り取られている。都会の片隅。忘れ去られたような場所。灰色に囲まれたエアポケット。
「まるで私の過去…」
そんな場所だと思った。


カウンセラーの勧めもあり、私は新しい名前を得て、新しい人間として生きていくことを決心した。
製鉄会社に入ることができたのも、カウンセラーの口添えによるものだった。身体は肉体労働に向いていたし、鉄の知識は皆無だったものの、鉄が真っ赤に溶けた溶鉱炉の側にいると心が落ち着いた。ねばり強い性格も幸いし、いつしか熟練工と同じ仕事ぶりを発揮。やがて現場を任されるようになった。

生活が安定するとともに、一人の女性と知り合った。同じ記憶喪失に悩む仲間だった。そして結婚。
「生まれ変わったと思えばいいのよ。過去のない者同士が結婚したんじゃなくて、今ここにいる一人の男と女が出逢い、結婚した。そう思いたいの」
妻となった彼女は、自分に言い聞かせるようにそう言った。過去のない男と女という組み合わせに、お互い戸惑いはあったものの、相手の心情が理解できるということは、過去のない二人にとって重要だった。不安は互いの心の底にしまい込み、今ある人生を生きていこう ーー そう言って握り合った彼女の手は温かく、柔らかだった。

彼女には驚くべき才能があった。英語はペラペラ、さらに韓国語と中国語、それとスペイン語なら日常会話に苦労しなかった。その特技を生かし、生活を支えてくれた。
「なぜ外国語に堪能なのかは分からないわ。以前は、かつての人生を手繰り寄せる大きな手がかりだとは思っていたけれど、今ではどうでもいいいの。それよりこれからの生活の役に立つのがうれしいの」
台所のテーブルを挟んで、彼女は私の目を見つめ、そうつぶやいた。彼女はテーブルに両肘をつき、絡ませた指に力が入った。それはまるで祈りのポーズに見えた。

アルバムを一冊買った。結婚式から始まった、二人の新たな生活をカメラが切り取ってくれた。もちろん、それ以前の写真はお互い一枚もなく、赤い表紙の裏側の白い余白が、妙に寂しかった。
過去を失ったという現実は、ごくたまに心の表層に浮かび上がることが無いわけではなかったが、それは現実の幸せの温かな重みで、ゆっくりと再び心の奥底へと沈んでいった。


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幸せな日々は続いた。妻は予備校教師の職を得た。子供も授かったし、すくすくと育ってくれていた。

「パパもママも昔の記憶がないってホントなの?」
小学三年になった長男が言った。記憶をなくしてから十五年が経っていた。
「記憶がないってどんな感じ?」
さらに問いかける息子は、母親似の黒目がちのつぶらな瞳を持っていた。姉は聡明で大人しい高校生。平凡ながら充実した生活が続いていた。
「手から離れた風船みたいに、自分がどこにいるのか分からないような本当に不安な感じだったよ」
私は答えた。
息子は、心配そうに私を見上げ、手をギュッとつかんだ。
「大丈夫。いまはママも、お姉ちゃんもおまえもいる。パパは、ちゃんとここにいるよ」
そう言うと私は、心根の優しい息子を力を込めて抱きしめた。

その長男が、ある日突然倒れた。
「白血球が急速に減少しています。危険です」
医者にも手の施しようがない、原因不明の病だった。

私と妻は動転した。信仰心などなかったが、ひたすら祈るしかなかった。祈る対象は思い浮かばなかったが、息子が大好きなキャンドルの光を思い出し、妻と二人で、多くのキャンドルに火をともし、回復を祈った。
祈る気持ちが高ぶり、ついには体中が震えだした。自分の中で、何かが激しくうごめいていた。まるで出口を探すマグマのような悲痛な思いが、私を激しく揺さぶった。体の震えは振幅を増し、ついに体は床に崩れ落ちた。全身がけいれんした。
「む、息子の、我が息子の魂を戻し給え!」
妻が何かを叫んだ。それはとても遠くから聞こえた。

私は、意識を取り戻した。
記憶は残っていたが、何と三日も意識を無くし、高熱にうかされた状態だった。親子が同時に倒れ、妻と長女は動転したが、不思議なことに、私が病院に担ぎ込まれるのと前後して、息子の病状は奇跡的に回復。死の淵から生還した。
「あなたが、あの子を救ったのよ」
妻の目が潤んでいた。
「よかった…」
心からの安堵が広がる。

しかし、その心の奥底に、小さなシミのようなものが残っている感じがした。
ーー 何かが私の中でもがいていた。表に出ようとしていた。
ーー 何なんだろう?この胸騒ぎは?

私は頻繁に夢を見るようになった。悪夢なのだろうか?寝汗にまみれる日々も多くなっていった。
夢は急速に成長した。一日ごとに、夢の輪郭ははっきりとしていく感じだった。

…部屋の中には若い女がいた。真っ赤な口紅、赤いセーター。派手な髪形のその女は泣いていた。
「これは私の過去なのか? それとも悪夢なのか」
朝、目覚めると私はうめいた。

次の日、部屋の花瓶には赤いバラが差してあり、男がいた。セーターの女は男にしがみついて泣いていた。男は女を冷たくあしらっていた。
「男は…私なのか!」
夢がリアルになればなるほど、焦燥感が募った。濃い霧の一部が風で吹き流れ、そこから記憶が顔を出そうとしているのを感じたが、その風を押しとどめることはできなかった。

不安と恐怖は増大していった。女は「本当の妻」なのだろうか? それとも恋人なのか?
隣では「今の」妻が熟睡している。私は妻には何も言わないことにした。夢の話だ。悪夢であってほしい ーー そう自分に言い聞かせた。
「皮肉な話だ。あれほど過去を取り戻したいと思っていた時もあったのに、今は逆に怖い」
私は再び祈りたい気分だった。祈る対象は思いつかないままだったが。

夢は続き、ついに切れた電線がショートしたかのように、記憶が頭の中で弾けた。

私は手にナイフを持っていた。その手は真っ赤な血に染まっていた。女の赤いセーターとは、鮮血に染まった白いセーターだったのだ。私はこの手で幾人もの女を殺した凶悪犯だった。
ベッドから跳ね起き、叫んだ。叫ぶしかなかった。恐怖と悔恨と不安が津波のように押し寄せ、大声で泣き叫んだ。
「ううっ、この手が女を殺したのだ! うわーっ!!」
しかし夢の中の男の顔は私とは違った。声も違う。私には人は殺せない!
「あの男は私ではない!」
「いや、殺したのは、まさに、この、この私の手だ!」
「おれは誰だ? あいつは誰だ? あいつが、いや、おれが殺したのか?」

私は錯乱状態となり、ついには絶叫したまま、気を失った。


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「やっと気付きましたか。鎮静剤が効いているので、少しぼんやりした気分かもしれませんね」
と医者は以前と変わらぬ無機質な声でつぶやくように話した。
白いシーツ、白いカーテン、白衣を着た医者と看護婦…。外から差し込む眩しいくらい白い陽の光。医者の頭ははげ上がり、首には脂肪がだぶついている。
「十五年…。いやあ長かった。私が担当した中では、桁外れに長い執行猶予でしたな」
ふいに医者の後ろから声がした。もちろん聞き覚えがあった。つっと赤いネクタイが、私の視野に滑り込んできた。そうあの刑事だ。
やせたほほ、鋭いまなざし…しゃがれていながら妙に張りのある声。刑事は十五年前とほとんど変わらぬ口調で、淡々とまるで独り言のように話を続けた。
「記憶が戻ったとは残念なことだな。まあそれだけ貴様の罪が深いということだ」
私は身を起こそうとしたが、かなわなかった。
ーー どういうことだ ーー と声を出そうとしたが、かすれて声にならなかった。
刑事は首をカクッカクッと左右に揺らした。口調ががらりと変わっていた。冷酷さが表ににじみ出たが、それはその刑事が初めて見せた人間臭さだった。
「そう。刑は執行されることになる。逆に言えば、長い猶予を受けていたんだ」
刑事の言葉は理解できなかった。
「おまえは残忍な凶悪犯だ。それは間違いない。もう思い出しているんだろう。両親はすでに死亡。しかも兄弟もなく親類もほとんどない天涯孤独の身。知人はみな『おとなしい男だった』口をそろえた」

いや、違う ーー 私には妻も子もいる。いるはずだ……。

刑事の顔にはやや憐れむような色が浮かんだ。
「まあ、しかし世の中には『あの人がまさか』という凶悪事件は多い。違うかな?」
そう言うと私の顔を真っ直ぐにねめつけた。
「まあ境遇などどうでもいい。とにかくおまえはまれにみる凶悪犯だった。おまえの持っていたノートには13人の名前があった。しかも全員が行方不明ときた。物的証拠は1人。他は状況証拠でしかない。しかし、それで十分だ。だからこそ裁判所も極刑は免れないと異例の判断をした。そしてすぐに処刑されるはずだった」
刑事は、ここで言葉を切った。
「…しかし例外があってな。いや例外が作られてしまった」
私は刑事の言葉を一言も聞き漏らすまいと身を固くした。
「おまえは刑が確定した後も一切、改悛の情を示さなかった。逆に世間を恨み、その憎悪だけをふくらませていった。おれは、おまえのような男はすぐに処刑されるべきだったといまでも思っている。だが、それだと大変に困ることになるという勢力があってな…。おまえのような極めつきの凶悪犯は秘密裏に、特別執行猶予が適用されることになったのだよ」
刑事は、あざ笑うかのようにそう早口でまくし立てた。
「特別…執行猶予?」
意味が全く分からなかった。
刑事が、ややくたびれた赤いネクタイを緩めるのを、ぼう然と見つめるだけだった。

「刑事さん、ここからは僕が説明を…」
いつの間に、部屋にはいってきたのだろう。穏やかな声が割って入った。あのカウンセラーだ。
「覚えていらっしゃいますか?」
私は、うなずいた。しかし変わらぬ親切な笑顔の、その目の奥に何とも形容できない、嫌悪感が潜んでいるような気がした。 カウンセラーは言った。
「僕は、実はある政府機関の研究員なのです」
やはり目は笑っていなかった。
「あなたのような方、反省のかけらもなく、憎悪をため込むだけ、ため込み、その結果、激しい妄執を抱えたままの罪人を処刑すると…」
カウンセラー、いや研究員はここで、息を大きく吸うと、勝ち誇ったように言葉を私にたたきつけた。
「世間を騒がす、残酷かつ理不尽な事件や事故が増えるということに、僕は気が付いたのです」
研究者は、顔を私に近づけ、笑った。そしてささやくようにこう言った。
「あなたのような人は、怨霊になってしまうのですよ」
そして、自慢げに首をすくめて見せた。

思考が停止した。
「まるでオカルトだろ」
研究者の言葉を引き取り、刑事はケタケタと笑った。
「怨霊が鎮守の神となる。菅原道真しかり、平将門しかり…。日本だけじゃありません。そうした宗教形態は世界中で見られる」
研究者の声に熱が帯びた。
「しかし現実的にそれを、この僕が証明したのです! そして怨霊が災いをなすこともね。決してオカルトなどという低俗な話ではありません」
刑事(といっても本当は何者か今となっては分からないが…)は、肩をすくめて、かすかな抗議を示した。
「さて。僕の大発見に世界は驚いた。そして各国政府は対策に乗り出しました。試行錯誤の上、密かに導入したのがこの特別な執行猶予制度です。顔を変え声を変え、過去を消した人間として「生きて」人並みな幸せを知ってもらう…。まあ簡単に言えばこういうことです」
説明は、研究者らしくよどみがなかった。

ーー それでは。あれは、私の幸せな生活は夢だったのか…。
そこまで考えたとき、心臓が急に大きく脈打ち始めた。何とも言えない感情が嵐のように巻き起こった。
人間の深層心理まで踏み込んでプログラムを作り、それで夢を見せ、その中で過去のない男を演じさせる。何という非情な方法なのだろう!

「そ、それはひどい…」
私はようやく絞り出すように声を出した。のどの奥はひりつき、声は上擦っていた。
「ひどすぎる…。夢を見させて、私をだましたのか。あんなに愛した妻と子供たちが、夢だったと言うのか! おまえら、許さん! 殺してやる!!」
私は必死に叫んだ。しかし体を起こすことはできなかった。丈夫なひもでベッドに縛り付けられていた。荒れ狂うような怒りが噴きだし、大きなうめき声が出た。

「うん? 何か勘違いしてらっしゃいますね」
そう言うと研究者は病室のドアを開けて、看護婦に声をかけた。しばらくすると、妻と子が病室に入って来たのだ。私は驚愕した。

「あなた!大丈夫。突然気を失って。心配しましたよ」
「パパ…良かった。死んじゃうかと思ったよ」
「うわっー。パパ。ぼく、ぼく…」
妻子は口々にそう言うと、抱きついてきた。
特に小学生の長男は取り乱していた。目は真っ赤で泣き通していたようだ。いつものやんちゃ盛りの表情からは一変し、くしゃくしゃの泣き顔のまま私の手を握った。
私は、やはり混乱の中にいたが、目の前にいるのは今まで一緒に暮らしていた家族だし、愛情が心の底からわき上がってくるのを止めることはできず、涙があふれ出て来た。

しばらくして妻子は医者に「もう大丈夫ですが、もう少し休ませてあげましょう」と促され、病室を去った。去る際に、息子は「お守り」と称して、白いミサンガを私の左手首に巻き付けた。

「あなた方のような怨霊が憑く凶悪犯は、環境や育ちというものに大きな影響を受ける人が多いようです。決して残虐でも自己中心的でもないが、感化されやすく、自分より力のある者に逆らえないというか…。悪の道に足を踏み入れると、ふとしたきっかけで坂道を転がるように悪に染まってしまう ーー というのが我々の考え方です。そこで、その悪につながる記憶を外科的に切り離したのです。完璧かつ劇的な効果でした」
研究者が言った。
「あなた方?」
私は眉をひそめた。
「そう。おまえの妻、彼女も執行猶予中だ。すご腕の元国際テロリスト。要人を何人も手に掛けている極めつきの犯罪者だ。おまえだって、前科は全くないが、どこで何人を殺めてきたことか…。まあ、証拠は何もないがな。というかそこが不気味なんだが…」
刑事がいらだちを隠さず吐きすてるように口を挟んだ。
研究者は刑事を一瞥し、少し間を置いた。
「なんで…」
私はうめいた。
「なんで、完璧なら、記憶が戻った」
研究者の顔がでゆがんだ。
「それでなくとも脳外科手術は難しい。しかも僕らのチームが確立したオペは極めて難度が高い。成功しても、あなたのように、特に男性に記憶が復活するケースが少なくない」
「少なくない?」
刑事は研究者に皮肉を込めた視線をなげた。そして続けた。
「もう一度、手術するか? 最も一件も成功例はない。一人だけ生き残ったが、植物状態だしな」
「改善は急いでいます。しかし残念ながら、大変に難しい…」
研究者は舌打ちをした。
「殺人の記憶が戻ったからには、刑が執行される」
刑事は、赤いネクタイを直しながらあっさり言った。
私は執行猶予の意味を心から理解した。
刑事は研究者に向き直り、本音をぶつけた。

「だから、最初から無駄だと言ったんだよ。おたくらの機関のおせっかいのため、我々はいつもやっかいごとに追われている。この男の監視も容易ではなかった」
刑事の属する機関と、研究者の機関は対立しているのだろうか。
「子供たちは…」
と、私は食い下がった。
「それを教えることは出来ない。だがどらちでもいいだろう。おまえは死刑囚であることに変わりはないのだし、死刑は厳然と執行されねばならない」
そう、あの子たちは、私の子に間違いない。遺伝的につながっているかなど、どうでもいいことだと思った。

「あなたは現実として、たしかに幸せを味わっている。そうですね? そしてあなたが過去に殺めた女性と幼い子どもに対して後ろめたい気持ちが生じているのではありませんか」
研究者の言葉は本当だった。さっきまでの憤りは、すでに消えていた。想像を超えた事態に動揺はしていたが、妻子と再会したときの温かみと、踏みにじった命への強い悔恨が私の心の中にわき上がってきていた。そして、さきほど一瞬にしてわき上がった感情を思い出した。私は、たしかに血に飢えている。
子供たちは真っ直ぐに育っている。あとは妻に託すしかあるまい。

「あなたの刑は、病死としかおもわれないような形で執行されるでしょう。大丈夫、奥さんに対する処置は完璧だったと確信しています。過去の記憶を思い出すことはないでしょう」
研究者は、すべて分かっているように語った。


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悪魔は、真っ赤な分厚いじゅうたんを敷き詰めた大広間の奧、巨大ないすに腰をかけた大魔王サタンの前にポツンと立ち、首をうなだれていた。
…そこは地獄だった。

「あの魂は、使いものにならなくなったぞ」
魔王の声はがらんとした空間にいんいんと響いた。
「申し訳ありません…」
悪魔は肩を落とした。
人間界で巻き込まれた事態から、まだ回復できていなかった。

魔界にとって有用な魂をそそのかし、さらに悪辣に膨れあがらせ、怨霊としてから回収するのが彼の仕事だった。しかし、人間の予期せぬ介入により、自らを人間の魂の中に封じられてしまったのである。
そして、その魂は怨霊になるどころか善人になってしまい、過去の所行で地獄に落とすことは出来たが、もはや魔界にとっては無用となってしまった。
怨霊は人間界に災いをなすために必要なのだ。魔界はそれを使いこなし、災厄を操り、そして憎しみ、哀しみ、恨みを抱えた魂を回収する。その血に飢えた魂こそが、魔界のエネルギーとなるのである。

仕事に失敗した上、身体にダメージまで受けてしまった悪魔は、さらに肩を落とした。

「まあよい。人間がこのような妙な仕掛けを作り魔界に仇をなすとは思ってもいなかった。おまえを助け出すのは苦労したぞ」
魔王は、凄みのある笑みを浮かべた。悪魔は知るよしもなかったが、かりそめの息子に高熱を引き起こさせたのは、魔王が編み出した秘術を習得し、送り込まれた使い魔の仕業だった。人間の罠にはまった悪魔に極度の精神的圧力を掛けることで、固く封印されていた、悪魔の記憶の蓋をこじ開けたのだ。
「だが、仕掛けを破る方法が分かったからには、このままでは済まさん。大規模な反転攻勢となるであろう。おまえには、この経験を活かしてもらうことになる。まずは休め」
そう言い残すと、魔王は漆黒のマントを翻し、その場を去った。

悪魔は疲れを癒そうと血の池に向かった。ふつふつと沸き立つ真っ赤な血の池。人間にとっては拷問だが、悪魔にとってはまさに適温。人間界の仕事でしみ込んだ人間性というあかを落とすのに抜群の効能がある。
「ああ懐かしい光景だ」
記憶を無くした悪魔が溶鉱炉にシンパシーを感じたのは、この灼熱の赤だったのか…。針の山を見上げながら、血の熱湯に身を滑り込ませた。顔で血のあぶくが弾けた。

魔王は、しばらく使われて無かった赤い電話機を手にし、回線をつないだ。
「もしもし」
受話器の向こうから、透き通る涼やかな声が答えた。
「ミカエルを出してもらおう」
魔王はおだやかに告げた。
「ミカエル様はお留守です…」
「居留守か。では、上手に人間どもを誘導したものだ…。と伝えておいてもらおう」
魔王は一気に本題に切り込んだ。
「あらあら。やはりお気づきでしたか」
かすかに笑いが含まれている。
「誘導にしては、あまりにも手際が良すぎたと疑っている」
抑えきれない怒気が噴き出した。
「まあ怖い。私たちには、ルールを破ることなどできないことはご存じのはず。お疑いは心外です」
天使は、まるで世間話でもしているかのように、軽やかに受け答える。
「魔王様こそ、あの少年に直接手を下したのではないのですか」
「わしが自ら手を出したら、災害が起こることは知っておろう。ともかく今回の件、我々は大いなる教訓を得た」
「悪魔が封じられたのは偶然だとミカエル様が申しておりました。だまし討ちのようになったこと、心苦しく思っております」
「それで謝罪か。まあいい、長い付き合いだ」
「ありがとうございます。人間という哀れな存在の管理には、ほとほと苦労しますわね」

ごく短い沈黙を双方が共有した。それが合図かのように魔界と天界で、受話器が同時に下ろされた。


白いもやが背景をすっぽりと覆う血の池では、悪魔が自分の手を見ていた。
「この手にからみ付いている白いひもはなんなのだ」
悪魔は、自分の記憶が本当に正しいのか、分からなくなっていた。
「私は…誰」
ふっと笑みがこぼれた。
思いもよらない言葉が口から出た。

「あの子を愛したのは、もしかして私だったのだろうか…」




(佐藤 紀生)




ya1 馬鹿ミニ ya2

Across The Universe / by The Beatles