pin地震・雷・火事・ガイ
(佐藤家の日常から48)
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大きな地震があった日


5月26日に発生した三陸南地震#1.。震源は気仙沼市大島の目と鼻の先だった。ほぼ「直撃型」と言える。震源が深かったため津波は発生しなかったが、震度5強という揺れには肝を冷やした。どーんと来たその時、佐藤家の面々は、どこにいたか。
ばーさんは自宅の台所にいた。
私はちょうど帰宅したところで、外の庭にいた。
ガイは買い物に出かけており、車を運転中。
あきは塾の教室。
ゆーたは部活で学校の校庭にいた。
じーさんは2年前にいち早く墓の下に避難していた。
何ともバラバラなのが佐藤家らしい。

佐藤家の面々は、その時、どう行動したか?

まず、ばーさん。夕食時だもの、慌てて火を消した。すぐに火を消せるポジションにいたのは、小心者の母として、さすがではある。
ガイはエンジンが壊れたと勘違いし、修理に金がかかるのを心配しながら舌打ちをしていた。スーパー・マーケットの駐車場に入り、周りの様子が何となく変なので、そこでようやく地震と気がついた。昭和53年の宮城県沖地震の時には、仙台市で専門学校に通っていたが、バスに乗っていて全然気がつかなかったという。2度の大地震を2度とも気付かない状況#2.にいたというのは、なかなか常人には難しいことではないだろうか。どう行動したか —— もくそもなく、知らなかったのだ。ちょっと悔しそうなのが、ガイらしい。
あき。通っている塾は幹線道路のすぐ脇にあるが、大型トラックが上り坂を勢いをつけて走り去るたびに窓が揺れるという。聞くと、水田を埋め立てたという。しかも最上階の三階にいたという。地震発生とともに、塾の先生があきれるほど、のどチンコ全開で、大きな悲鳴を上げ続け、右往左往したという。ちょっとした地震でも「きゃー!」とか「どひゃー!」とか大騒ぎしていたから、その慌てぶりは目に浮かぶようだ。
ゆーたは? 何せ校庭である。周りにはなーんもない。閉じこめられる心配も、頭上からガラスや鉄骨が落ちて来る心配もない。地盤の強固な場所と知られる地区にあるため、地割れも液状化現象もなかった。しかも高台で万が一津波が来ても、なーんの心配もない。バスケットボール部の仲間と「うはは、すげー。揺れてる。あはは、すげー」と地震アトラクションを楽しんでいたという。お姉ちゃんとは違い、いかにも、いかにもゆーたらしい緊迫感ゼロのシチュエーションだったのだ。
父親の私は、派手に散乱した台所の写真を撮り(ちゃっかり紙面を飾った)、後は会社に引き返した。その間に携帯電話の通話ができなくなったこと、商店の被害、水道管の破損などを、ちゃっかりと、とても効率良く取材した。
じーさんだけは慌てず、騒がず、どーんとしていた#3.。当たり前だけど。

まあ人的被害はなく、ホッと胸をなで下ろしている。物的被害では、佐藤家代々に仕えてきた家宝の皿やコップが飛び出し、華々しく散った。それと私の自慢の書斎(三畳)では本とCDが派手に床に散乱した(写真参照)。見事にバラバラで、1カ月かかってやっと、整理を終えた。

地震惨状

それにしても地震のパワーはすごい。何せレコード1200枚を納めている棚が7センチもズコッとずれたのだから。タンスなどはすべて金具で固定していたが、レコード棚についてはかなりの重量があるため「大丈夫だろう」とタカをくくっていた。今回はマグニチュード7だったが、8になると30倍のエネルギーだ。震度6以上となると、建物の倒壊もありうる。頼むから来ないでほしい。
とは言っても、宮城県沖地震は「2030年までに99%」…ということはほぼ確実に来ると予想されているから嫌になる。気仙沼地方は、地盤の堅さにもよるが震度4から今回と同じ震度5強が予想されている。でもその日に気仙沼にいるとは限らないし、あきも大学に進学して東京にいるかもしれない。今度は関東大震災パート2を心配しなければならないしなあ。地震大国・日本に逃げ場はないんだよね。

余震は今でも続いている。臆病なあきはしばらく、ゆーたと一緒に寝ていた。余震のたびに大騒ぎし、ある朝などはしっかと、ゆーたのパジャマの袖を握り締めていた。小心者の私はありとあらゆる家具を金具で固定しまくった。ガイはいかに我が家の被害が凄かったかを自慢して歩いた。さすがに地震・雷・火事・ガイである。
地震をネタに記者随想のコーナーに書いたが、その際、佐藤家の被害状況について「女房の目尻にある活断層(しわとも言う)が少し深くなったような気がするが、建物の損傷やけがはなかった」と書いた。
実は最初の原稿では「女房の眉間にある活断層……」と書いていた。しかし校正段階で、「眉間」を「目尻」に改めた。確かにガイにはくっきり鮮やかな眉間のしわがあって、あきとけんかするときには、更にふかーく深く刻まれる。しかしそれを地元民しか読まないとはいえ新聞で公表するのを、愛妻家であり、善良な夫である私にはできかねた。そこで「目尻」という一般的かつ汎用的な言葉に置き換えたのである。真実と配慮に揺れた悩ましき決断であった。
その煩悩をガイに伝えた。
「もし眉間なんて書いていたら、絶交してたからね」
オウ・マイ・ガッイ!
夫婦の間にある、深かーい活断層を刺激してしまったのだろうか?活断層のみならず、活火山や、プレートテクトニクス&コペルニクス、大津波の危機にさらされている御同輩。「天災は忘れたころにやって来る」のではなく「天災は必ず来る」。肝に銘じましょ。

( のりお )

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あずみによる脚註
今回の地震がもう少し強かったら、わたしもしかして死んでたかもしれないでした。ほんと、地震って恐いねえ。
1.) 三陸南地震:
2003年5月26日午後6時24分ごろ、宮城県気仙沼市沖10Kmほどを震源とする、マグニチュード7.0の地震があった。岩手県大船渡市、江刺市、宮城県石巻市、栗駒町、金成町などで震度6弱を観測、宮城岩手両県で被害が出たが、死者家屋の倒壊など深刻な被害はなかった。震源が70Kmと深かったためか、一番恐い津波もなかった。気仙沼市は震源に一番近かったが震度5強で、わたしはちょっとだけ悔しかった。次に来るといわれている宮城県沖地震と違い、プレートが動くタイプの地震ではなくマントル内の破壊による地震らしい。震度4程度の余震が数度、震度1-3程度の地震は何十回とあって、そのたびに気が弱い人は肝を冷やした。2011年、東日本大震災時の佐藤家については2011年3月11日▼
2.) 2度の大地震を2度とも気付かない状況:
仙台に住んでいて前の宮城県沖地震が分からなかったというだけで凄いけど、今回もそーなんて凄い度胸だな。って度胸とはほんとは関係ないのだろうがねえ……。
3.) どーんとしていた:
いや、地震によるお墓の倒壊もかなりあって、被害も相当出てるので、どーんとしていたのはやっぱりさすがにおやじさんといえるのでは?




しかし、地震の恐さというのは別格だと思ったよ。