pin2011年3月11日
(佐藤家の日常から84)
yoko
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2011年3月11日#1.


この日も「佐藤家の日常」だったのだろうか?
「日常」を辞書で引くと「常日ごろ」「平素」とある。その意味では「常ならぬ日」だった。しかし震災から時を経るごとに、「非日常」だったあの日を含めて「佐藤家の日常」は続く。いや続けていく。生病老死も人の常ならば…。

震災から7カ月が過ぎ、この文章を書いている。1000年に1度の大震災。マグニチュード9.0の地震が発生した午後2時46分。#1.その時。

私は宮城県女川町の役場にいた。
ガイは気仙沼の自宅。
あきは仙台市内にある会社。
ゆーたは東京八王子のアパート。

私とあき、そしてガイは震度6弱の揺れに翻弄された。揺れの大きさ以上に、その異様な長さの方が怖かった。3段式ロケットのように次々と揺れがつながっていた。のちに震災と呼ばれる天災に恐怖を感じていた。同じ仙台市でも震度6強のところもあり、石巻市も震度6強を記録した。
その時、ゆーたは優雅にシャワーを浴びていた。八王子も震度5弱。強い揺れは感じた。ただ、地震慣れしている宮城県出身者としては「結構大きいな」てな程度だったらしい。いいのか?危機感が薄いぞ、ゆーた。でもそんなもんかもしれん。
小心さを長男の私に一子相伝したばーさんは、じーさんと一緒に、高台にある寺で、佐藤家代々ご先祖さまとともに墓下のシェルターに避難していた。

三陸南地震の時 (「地震・雷・火事・ガイ」▼参照) とほぼ状況が似ている。
私は仕事モード、あきは最も強い揺れを感じていた。ゆーたはまだ余裕があった。ガイは過去2度の大きな地震のときは車中で実感は薄かったが、1000年に1度の今回の地震は、車から逃げていたのはさすがだ(かなり不謹慎だが)#2.

長い揺れが続いていた時。ガイは、佐藤家の玄関ドアを開け、頭を庇いながら悲鳴を上げていた。
ガイがヘルメット代わりに頭に載せた物を聞き、笑った。それが何かは後述するとして…。そう笑えるようになったのだ。まだ復旧、復興は緒についたばかり。(生き残った) われわれが受けた様々な痛みは、時が薄紙をはぐように、解決するしかないのだ。

地震発生からおよそ50分後。女川町に大津波が来た。
私は町役場屋上で、18メートルを超す津波が町を破壊していくさまを#3.、震えながらカメラに収めていた。「これは現実か? 」。何度も同じ言葉をつぶやいていた。

女川町役場
3月11日午後3時49分、女川町役場屋上建屋から撮影 写真「三陸河北新報社」
写真左上部分にある建物、4階建てビルの屋根にある太陽光パネルが破損している。
   漁船が激突した。あの高さまで津波が来た。この写真では津波はかなり引いている。

あきも、同じ報道に携わる者として、必死に仕事をしていた。
ガイのいた気仙沼の家は高台にあるが、ライフラインは全部だめになった。情報は途絶した。車のラジオは聴けたのだが、ガイにはそんな余裕もなかった。家から港方向を見ると、赤々と空が染まっていた。大火事が発生していた。気仙沼も女川、石巻同様、とんでもない事態を迎えていた。

女川町役場は4階天井近くまで水没。最初に避難した屋上に水が届くまでわずか10センチだった。役場は海抜6メートルのところにある。もしこれが海抜0メートルだったら、その後、皆が避難した屋上建屋も水没していた。
「さっきを上回る第2波、3波が来たら…」。誰もがその恐怖と闘っていた。
目の前では、押し波で土台からもぎ取られた家屋が、猛烈な引き波により、まるで煎餅がパリパリと砕けるようにバラバラになって行く#4.。屋根の上には人影もあった。
水気をたっぷり含んだ冷たい春の雪が降り始め、服を濡らしていく。無情とはこのことか?
プロパンガスのボンベがロケット花火のように飛んでいた。電線は引きちぎられ、火花をあちこちで散らしていた。大型漁船が役場に向かって来た時はさすがに、終わりかと思ったが、柱をかすめただけで済んだ。震災1カ月後、その柱は通常の太さの半分になっていた。1階玄関の開口部を支える柱だ。間一髪だった。

午後6時前。津波は続いていたが、次第に弱くなっていた。冷たい雪で高齢者の凍死の方が心配になってきた。役場職員が階段を片付け、どうにか1階に下りる道筋を付けた。懐中電灯の明かりを頼りに、70人ほどいた全員が無事脱出。役場裏手の高台にある民家2軒に分かれて、避難した。
電気、水道、ガス全てがなく、家主もいなかったので、こたつ掛けを膝に掛けて、朝を待つことにした。しかし染み付いた雪が体を芯まで冷やしていたため、一睡もできない。しかも頻繁に大きな余震があり、再び津波が押し寄せて来るかもしれない不安、ごうごうという不気味な音に耐えていた。
1度だけ小用のため外に出た。満天の星! こんな災厄に遭いながらも、今まで見た中で、最も美しい星空だった。街に一切の明かりはなく、漆黒の闇が与えた、残酷なほど輝く星空だった。
避難している人の半分は役場職員。何もできない状況ながら、点呼を取り、みかんを1人半分ずつとキャンデーを1粒ずつ配布するなどしたほか、具合の悪そうなお年寄りの様子に目配りしながら、一方で、どうにか外との連絡を取ろうと努力していた。
役場職員もそうだが、多くは自宅を津波で失っていた。「何も無くなった」。そうつぶやいた女性。でも泣きわめいたりはしない。静かな諦観がそこにはあった。「生きているだけでいいさ」。気丈に言う男性も、弟の安否を心配していた。

2011年9月末現在、女川町は民家の実に8割が被災した。死者・行方不明は住民の1割、900人近くに及んだ。

翌朝。これまた美しい朝日があった。その中、石巻市に向かう道路沿いの高台にあった女川町立病院からこちらに来たという人がいて、私は町からの脱出を決意した。ラジオで女川に触れた放送は一回だけ。「女川町の情報は全くありません」。町は壊滅した。このことを石巻市の本社に伝えなければ。地元新聞記者として#5.できるのはそれしかなかった。
病院に着いたら、無事だと思っていたのに1階がほぼ水没したと聞いて驚いた。高台から見下ろす街は大きなビルとがれき以外、何もなかった。4階のビルの屋上に車が仰向けの形で載っていた。
住民の助けを借りてどうにか、被害の無かった住宅地へ移動。そこで自転車を借りることができた。石巻中心部までは15キロほど。幹線道路が地割れしていたら、車は立ち往生すると思い、自転車を選択した。出掛け、石油ストーブ#6.で炊いたご飯をごちそうになり、生き返った心持ちになった。
石巻市との境にある万石浦はカキの赤ちゃんを育てる喫水域で、入り口が狭いためだろうか、津波の浸入が少なかった。地震による地盤沈下で一部、冠水してたが、地割れも少なかった。途中、海沿いルートと山越えルートに分かれる場所があり、港町地区は津波被害を受けた可能性が高いと判断し、山越えルートを選んだ。田園地帯に大きな被害はないように見えた。陽光が降り注ぐ。まるで何もなかったかのようなのどかな風景。しかしよく見ると、道路はあちことで地割れし、液状化で波打つような箇所も多く、電柱も傾いていた。
石巻市中心部につながる橋の手前で、警官に止められた。「この先、水没しているので行けない」と言う。海からは遠い地区なので、耳を疑う。仕方なく、かなり遠回りになる迂回路を走り、再び、市街地に通じる橋に。そこはバリケードがあった。「どうしたんですか? 」「街中が水没しているので、通行止め」。「えっ? 」。意味が全く分からなかった。後で知ったが、川を遡った津波が、盆地のように低い場所にある街中心部を水浸しにしていた。海岸近くは津波の力で破壊されただけでなく、石巻は追い打ちを掛けるように広範囲に冠水していた。しかも潮水と汚泥が混じった水だ。

会社に帰ることがかなわないと知ったときの脱力感は大きかった。何のあても無かったが、漁業を担当していたこともあり、郊外にあった漁協のビルには知人がいるかもしれないと思い、向かった。
もしかしたら停電が解消しているかもしれない ── という淡い期待もあった。パソコンが使えれば、仙台本社にメールで記事も写真も送れる。そう考えた。しかし、その希望はあっさりとついえた。漁協でも全てのライフラインはやはり途絶したままだった。万事窮す。
濡れた靴を脱ぎ、スリッパに。新しい靴下を分けてもらった。ビスケットとペットボトルのお茶を恵んでもらっただけで、感謝だった。
漁協職員の多くも家族の安否、家の被害すら分からず、みんな途方に暮れていた。ラジオの情報はあったがテレビが見られないので、津波が押し寄せたという実感が乏しいという職員もいた。女川町で撮影したカメラの映像を見せると、みんなが目を丸くして息を飲んだ。

女川町
津波直後の女川町の惨状。屋根には雪。写真「三陸河北新報社」
あり得ないところに、クルマが。いったいなぜこんなことに...。

そのとき、1人の職員が「みんな無事か」と駆け込んで来た。仙台から通っている人だという。全員の無事を確認し、再び仙台にとんぼ返りするというような会話をぼんやり聞いていた。
「仙台? 今から、帰る? 車で? 」
ここからは伏してお願いするしかなかった。すると二つ返事で同乗を許してくれた。津波浸水区域を避け、かなり内陸部を迂回しながら進んだ。「こんな所まで津波が!!」水田が水浸しになっていた。道路も大きな段差がある所もあるなどし、ゆっくりと進んだ。仙台市内も停電していた。親会社の本社前まで運んでもらえた。感謝しても、しきれない。

肩からカメラをぶら下げ、濡れた靴を左手に持ち、足はスリッパ。怪訝な視線はあまり感じなかった。震災から一夜明け、原発もとんでもない事態を迎えつつあった。ちょっと変な格好なんて、誰も気にもとめてなかっただろう。
会社の階段を上がって5階へ。気仙沼で1年前まで支社長をしていたK氏が階段を下りて来て
「あれっ? 紀生さん! 女川で死んだって噂だよ」
「…生きてました」
「ダイ・ハード」佐藤紀生スピンオフ・パート1、感動巨編「殺さないでほしい」
カメラのメモリを写真部へ手渡すと、記事を書こうとパソコンに向かった。しかし指が震えて、何度も入力ミスを繰り返す。仕方なく、口述し、後輩がパソコンで打ち込んだ。口述筆記なんて記者生活で初めての経験だ。電話で伝えたことはあったが、それも原稿を読んでの送稿だ。

カップヌードルを食べ、気がついたら携帯に数十件のメールが届いていた。サーバーで止まっていたメールが一気に届いたのだ。あきに返事を出したのは12日午後2時00分。

「生きている。間一髪」
「よかった。本当によかった! 」

すぐにあきからの返信が来た。ゆーたにも無事メール。
ところがガイとは全く連絡がつかない。石巻市の会社とも。

私が生きていたというのを石巻市の会社のみんなが知ったのは、13日朝「河北新報」に私の署名入りで書いた女川町の第一報で。本社報道部の社員が、何とか辿り着けるルートを見出し、石巻支社に救援物資とともに13日付「河北新報」朝刊を届けてくれた。
「石巻かほく」は、記者の書いた記事、撮影した写真をUSBメモリーに入れ、仙台へ帰る本社報道部員に託すことで翌14日付から発行を再開した。そこにはさらに長めの女川体験記が掲載された。
会社の3階の部屋に入ると、そこにはバッテリーを極力消耗しないようにしながら、記事を書く仲間の姿があった。自動車もほとんど全てが水没、道路はがれきの山の中、できうる限りの取材をし、原稿にしていた。涙が出た。
電話は通じない。同僚らの撮影した写真、原稿をメモリに移し、仙台に持ち帰った。その後、一部の携帯電話メーカーの回線がかぼそいながらも復活。屋上から送受信して、新聞発行を続けた。

ガイと連絡がついたのは15日。
ガイもおれの安否が分からず困り果てていた。気仙沼でもライフラインが完全に途絶えたままだったが、永遠のライバルSちゃんの旦那S氏が、隣接する岩手県一関市室根地区なら携帯が繋がるからと、私の携帯をコール。
「あっ、ガイがさ、おめ死んだんでねえかって、泣いてきたぞ」
「生きているってば」
「ダイ・ハード」佐藤紀生スピンオフ・パート2、ミステリー大作「頼むから殺さないでください」
ということで双方、安否を確認できた。心底ほっとした。ガイと震災後話をしたのはちょうど1週間が経った18日午後7時過ぎ。依然として携帯はダメだったが、家の固定電話に掛けたらガイが出た。
その翌日、お互い高速バスで仙台へ。あきのマンションで再会できた。そしてほぼ10日ぶりの風呂! 温かい鍋料理! ありがたい。

その後、私は腰の高さまで水没したアパートの片付け、泥出し、床掃除をし、ロフトで寝泊まりする生活を1カ月続けた。仙台の友人のT氏からは、派手なパンツとジーパンももらい、3度も家に泊めてもらった。車検切れの車を譲り受けた。

部屋の中
ヘドロを掻き出した、石巻のアパートの様子。
まだ電気も水道も無かった。3月18日

派手なパンツ
友人T氏からいただいた、貴重で派手なパンツ。とても助かりました。


家族、友人全員が無事だった。 感謝するしかない。

津波で運ばれ、車ごと他人様の2階部分に突っ込んだK氏#7.。経営する幼稚園の柱にしがみついて津波に打ち勝った体力自慢のSちゃんと、その旦那S氏。家と経営してた塾を根こそぎ持って行かれたT氏。離島・大島に5日間、幽閉されたA氏。勤めていた会社が全壊したM氏は、押し寄せる津波を魚市場上で撮影し、NHKで放送されるなど貴重な資料となった。商店の1階部分が水没したH氏。唯一、F氏は大きな被害がなかった。みんなの所を慰問していた。律儀なやつである。
今年、久々に日記を1月1日から書き始めた。ノートは水没したが、乾かして、震災後も続けている。未だに潮の匂いが抜けない。

ガイも「今年こそ」とやろうとしたことがある。それは家計簿。
以前にも1度つけはじめたのだが、妹が1月2日に大病で倒れ、無事、退院するまで、大騒ぎとなり、それが理由とは直接関係ないとは思うが、断念している(「佐藤家の大変なお正月」参照)。そして今年も。ガイよ。慣れないことはやはりしない方がいいということだ。うはは。
家計簿
今回も、途中で放りだされた可哀想な家計簿


さあ、復旧。そして復興へ。まだまだやるべきことはごまんとある。頑張ろうぞ。皆の衆。

女川町
最初の写真とほぼ同じ位置から7/4に撮ったもの。
まだまだこれからだが、それでもだいぶ片付いている。



( のりお )

yoko
yoko

あずみによる脚註
のりおくんも、やっとこんなのを書けるくらいに落ち着いて来たのだね。いろいろあったが、生きていてよかったと云うしかないなー。

1.) マグニチュード9.0の地震が発生した午後2時46分。:
のちに、東日本大震災と云われる災厄が始まった時間。10メートルを遥かに超える大津波が、青森から茨城にかけての沿岸を襲い、多くの人の命を奪った。また、東京電力福島第一原子力発電所では、原発の炉心がメルトスルーし、膨大な放射性物質が外に放出されるなど、計り知れない大きな被害をもたらした。
2.) (かなり不謹慎だが):
今回、津波で犠牲になったなかには、車で避難中に津波に襲われた方々が多くいた。生命力の強いガイは、今回、地震の前から車は危ないと避難していたのですね。
3.) 18メートルを超す津波が町を破壊していくさまを、:
女川の18メートル超の津波とはどんなものだったのか。YouTubeから▼


4.) 煎餅がパリパリと砕けるようにバラバラになって行く:
女川では、強烈な引き波で、鉄筋コンクリートのビルが倒されると云う、これまでの常識ではあり得ない事態が起こっていた。
5.) 地元新聞記者として:
のりおくんは、仙台に本社のある有力地方紙の子会社の記者。彼の会社は、石巻、気仙沼でそれぞれ地元向けの新聞を発行している。これまで多くは気仙沼で新聞を作って来たが、いまはその子会社の本社がある石巻に単身赴任中。この佐藤家の日常の記念すべき第一作、エレガントな朝食の謎が書かれた1998年も、石巻。このときは家族で暮らしていた。
6.) 石油ストーブ:
3月11日は真冬と同じでとても寒かったのだが、ファンヒーターやエアコンなど電気を使った暖房は全部つかえず、広い体育館に石油ストーブが一つなどということが各地であった。どこでも石油ストーブこそが暖房でありストーブ(料理道具)であった。作家の曽野綾子さんは、寒かったら瓦礫を燃やせと云ったが、例えば気仙沼市では瓦礫が炎上し一つの町を凡て焼き払ったし、海が燃え離島大島まで火が移った。どこでもみな、瓦礫に火を付けず、寒さに耐えていた。
7.) 車ごと他人様の2階部分に突っ込んだK氏:
多くの人が車で流され亡くなったなか、K氏のように、流されながらも奇跡的に助かった人もいた。SちゃんS氏とも首まで津波に浸かり、一時は死を覚悟したと云う。T氏は、自分たちが住んでいる町が凡て破壊し尽くされるのを目の当たりにした。みなそれぞれが、なんとか助かったというありさまだった。




我々はいったい、なんという経験をしてきたのだろうねー。
それにしても、新聞記者とは大変な職業だと思った。